2022年が始まりました。一年の始まりに「今年こそは……」と思うものの、結局いつも通りの一年を過ごしてしまう、という方も多いのではないでしょうか。変化に必要なことは、まず自分の現状をよく知ることです。
禅宗の僧侶で登録者42万人(2021年12月現在)のYouTuberでもある大愚和尚は禅語を通して、多くの生きづらい人の悩み相談に答えてきました。大愚さんは「行き詰まったとき、最後の救いになるのは常に自分です。『自分で気づくこと』こそが、あなたが最終的に苦しみを手放していく方法です」と語ります。
長い歴史を持つ禅宗の言葉には、私たちに余計な思い込みを捨てさせ、新たな人間関係を築くヒントを与えてくれるものがあります。
今回は大愚さんの著書『最後にあなたを救う禅語』より「放下著」と「我逢人」を紹介します。(以下、本書より抜粋のうえ再編集)
【前々回を読む】⇒いつも何か満たされない人へ。生きづらい人を救う大愚和尚のことば
【前回を読む】⇒SNSでマウントしあう人へ。妄想と怒りをしずめる方法を、大愚和尚が語る

唐の名僧、趙州禅師と修行僧・厳陽(げんよう)の禅問答の中に出てくるのが、この「放下著」という言葉です。放下とは捨て去るという意味です。著は、強調するための助詞で、「捨て去ってしまえ」という意味になります。

厳陽が「私は何も持っていませんが、どうしたらいいですか?」と問うと、趙州禅師は「捨て去ってしまえ」と言いました。
禅の教えのもっとも大切なこと、それは「執着を捨てる」ということです。
裕福な王子として生まれたお釈迦様は、29歳で出家しました。地位も家族もそれまで手にしていたものをすべて捨て、苦行の末に、人々を幸せに導く悟りを開いた方です。
しかし、誰もがお釈迦様のようにすべてを捨て去ることができるわけではありません。
それどころか、苦労して手に入れたものを手放すのは人間にとって至難の業です。努力に努力を重ねて得た役職や、やっと手に入れた名誉、過去の成功などにしがみついてしまいがちです。でも得たものを捨てられずにいると、それらにとらわれてかえって不自由になってしまいます。
放下することは自分を「ゼロ」にリセットすることです。潔くこれまでの栄光を捨て、「ゼロ」になることで、心の器=キャパシティにすっぽりとスペースができますから、何でも入れることができます。それまでの人生で溜めてきた不必要な荷物を下ろし、もう一度、無限の可能性を手に入れることでもあります。

大愚元勝さん
長い歴史を持つ禅宗の言葉には、私たちに余計な思い込みを捨てさせ、新たな人間関係を築くヒントを与えてくれるものがあります。
今回は大愚さんの著書『最後にあなたを救う禅語』より「放下著」と「我逢人」を紹介します。(以下、本書より抜粋のうえ再編集)
【前々回を読む】⇒いつも何か満たされない人へ。生きづらい人を救う大愚和尚のことば
【前回を読む】⇒SNSでマウントしあう人へ。妄想と怒りをしずめる方法を、大愚和尚が語る

【放下著】ほうげじゃく:幸せになりたいのなら、得てきたものをまず捨てよ
唐の名僧、趙州禅師と修行僧・厳陽(げんよう)の禅問答の中に出てくるのが、この「放下著」という言葉です。放下とは捨て去るという意味です。著は、強調するための助詞で、「捨て去ってしまえ」という意味になります。

厳陽が「私は何も持っていませんが、どうしたらいいですか?」と問うと、趙州禅師は「捨て去ってしまえ」と言いました。
禅の教えのもっとも大切なこと、それは「執着を捨てる」ということです。
裕福な王子として生まれたお釈迦様は、29歳で出家しました。地位も家族もそれまで手にしていたものをすべて捨て、苦行の末に、人々を幸せに導く悟りを開いた方です。
人生で溜めてきた不必要な荷物を下ろす
しかし、誰もがお釈迦様のようにすべてを捨て去ることができるわけではありません。
それどころか、苦労して手に入れたものを手放すのは人間にとって至難の業です。努力に努力を重ねて得た役職や、やっと手に入れた名誉、過去の成功などにしがみついてしまいがちです。でも得たものを捨てられずにいると、それらにとらわれてかえって不自由になってしまいます。
放下することは自分を「ゼロ」にリセットすることです。潔くこれまでの栄光を捨て、「ゼロ」になることで、心の器=キャパシティにすっぽりとスペースができますから、何でも入れることができます。それまでの人生で溜めてきた不必要な荷物を下ろし、もう一度、無限の可能性を手に入れることでもあります。
「お金も才能もない私、何を捨てればいいの?」
一方で、これまでの人生で、肩書にも富にも恵まれず、「自分にはお金も才能も何もない、だから何の価値もない」と悲観しているタイプの人にも、同じく「放下著」という言葉が必要です。
趙州禅師と厳陽の問答には続きがあります。何も持っていないのに、禅師に「放下著」と言われた厳陽は、「でも何も持っていないのです。何を捨てればいいのですか?」と再度問いました。すると禅師は「それでは担いでいけ」と言いました。
何もないのですから捨て去ることも、担いでいくこともできないと思うのが普通です。しかし、禅師は、「持っていない」と思う心すら窮屈で余計なものだから、担いで持ち去れと言ったのです。
自分を減点することをやめてみよう
YouTubeの『大愚和尚の一問一答』には、「私はブスだから何も思い通りにならないんです」「私は小さいときからいじめられてばかりで、幸せになることを諦めてます」という負のスパイラルに陥っている人たちの悩みがあふれています。
富をひけらかしたり、美人を鼻にかけたりせず、謙虚であることは大事ですが、このタイプは「何も持っていない自分はダメ人間」「自分はブス」「自分はいじめられやすい」という思い込みで心の器をパンパンに埋め尽くし、それ以上何も入らなくしています。
そんな自分に気づいたら、即座に放下しましょう。マイナス1、マイナス2、マイナス3と自分を減点するのはやめて、「ゼロ」にリセットすればいいのです。
「ゼロ」とは何かといえば、無垢な赤ちゃんの状態です。純粋で、素直で、無限の可能性を持っている赤ちゃんの心をイメージしてみてください。
少しずつ何度でも手放す
禅語を実践しているように見える禅僧であっても、「放下」はもっとも難しい実践です。
知らぬうちに心に垢が溜まり、何かをきっかけに見栄や欲、あるいはいらぬ劣等感が芽生え、心にはびこっていきます。なかなか「ゼロ」に戻すことは難しい。
だから、僧侶は頭を剃るのです。欲や見栄は髪の毛と同じで知らず知らずのうちに生えて、伸びていきます。

頭を剃るのは難しくても、自分の部屋を掃除したり、クローゼットを整理したり、化粧を落としたりする習慣とともに、自分の心に見栄や欲などの垢が溜まっていないかを確認し、ホコリや汚れと一緒に落としていくのもひとつの手です。
一度にすべてを捨て去ることが難しければ、少しずつでも何度でも、放下していくことです。「ゼロ」にリセットすることで新しい可能性が開け、何にもとらわれないあなたの純粋な心に惹かれる人が集まってきます。お釈迦様の生まれたインドで発見された数字「0」は、幸福への可能性を持つ無限の数字なのです。
【我逢人】がほうじん:会うべくして出会った人となら、不可能を可能に変えられる
「我逢人」は、人と出会うことがすべての始まりである、という禅語です。
人生や仕事について考えるとき、何をするのか、どうするのか、ということは重要ですが、実はいちばん大切なのは、誰と出会い、誰と一緒に歩んでいくか、ということです。人と出会うことでものごとが展開し、新しい世界が開け、イノベーションが起こります。だからといって、手当たり次第に人に出会えばいいというわけではありません。
「この人との出会いがなければ、今の自分はなかった」というような、一緒に人生を切り拓いていくような人と出会えているか、が重要です。
いい人と出会えないのは、自分が未熟だから
「そういわれてみれば、なかなかいい人と出会えていない」と思っている人も多いことでしょう。実は、いい人と出会えないのは、自分自身が未熟だからなのです。

人間性において未熟なのか、知識や経験、スキルにおいて未熟なのかは、仕事かプライベートかといった、出会いを求める状況によって違うでしょう。けれども、自分のレベルが出会う人のレベルを決めている、という原則は変わりません。
出会いはいつも突然やってくる
さらに「人生を変える出会い」というものは、いつも突然であり、偶然であり、それでいて必然です。
たとえば、真言宗・開祖の空海和尚は、遣唐使として唐に渡り、密教の正当な伝承者、恵果和尚から灌頂(かんじょう=法を正式に伝える儀式)を受け、阿闍梨(あじゃり)となりました。
空海が教えを乞うために恵果和尚を訪ねたところ、恵果和尚は、空海を見てすぐさま、次なる密教の伝承者と見てとり、密教の大法を授ける手続きに入ったといいます。
どれほど長く修行を積もうが、どれほど高い志を持っていようが、その人に大法を受け継ぐだけの力と可能性が備わっていなければ、大阿闍梨の法を授かることはできません。
しかし空海は、出会ってすぐに、「あなたが来るのを待っていました」と、唐代きっての高僧、恵果大阿闍梨に言わしめたのです。
教えを乞うべき師が現れたなら、すべてを投げ出してでも学びたいと願いながら、誰よりも愚直に努力精進を重ねてきた求道者と、誰もが認める最高峰の師は、出会うべくして出会ったのです。
人生を変えるような弟子との出会い
私にも、「人生を変えるような」弟子との出会いがありました。
かれこれ10年余り前のことです。私は先代から住職を引き継ぐにあたって、500年以上続いたお寺を、次の時代にどう受け継ぐか、という新時代に向けたお寺のあり方について思案していました。そこに紹介者を通して、僧侶でありながら、デザインを専門に勉強してきた、ある男性と出会ったのです。
私がそのことについて打ち明けたところ、彼は、私の頭の中にある、非常に抽象的な未来構想を絵にすることができました。しかも、「そうそう、それが言いたかったんだ!」と自分でも言語化できていないようなニュアンスまで汲み取って、私の頭の中をさらに昇華させて表現するのです。これがどれだけ稀有で貴重なことなのかは、プロのデザイナーに大金を払って何かのデザインを依頼しても、なかなか思ったような仕上がりにならないジレンマを経験したことがある人ならばわかると思います。
彼も才能を生かせずに悶々としていた
今思えば、奇跡のような出会いでした。彼と出会わなければ、私の頭の中にあったことを実行に移すことは難しかったでしょう。彼には、もともと見聞きした「想い」や「物語」をわかりやすく絵図に描き表す特殊な能力がありました。
聞けば、すでに幼少の頃から、彼の家では、兄弟や従妹が集まると、言葉ではなく、絵でコミュニケーションをとっていたというのです。まさに天性です。それでいて、彼は自分の才能を活かす機会に恵まれず、親戚の叔母さんの家を間借りして、悶々としていたのです。
彼は私に言いました。「大愚和尚は時代に風穴を開けていくアーティストです。感性の赴くままに行動してください。そして目の前にある壁を思い切り壊してください。後の処理は僕たちがやります」と。
禅僧がYoutuberになったきっかけに
この言葉がなければ、今の大愚元勝はなかったでしょう。彼の観察眼や感性により、私の構想は絵に描いた餅から、現実の色や形を持ち始めたのです。
私は彼に言いました。「これからは映像の時代です。絵やデザインだけでなく、人々の魂を揺さぶる映像を研究してください」と。その延長で始まったのが、Youtube『大愚和尚の一問一答』です。彼は今、ナーランダ出版という会社を立ち上げ、社長となりました。彼のデザインは商品のヒットを後押しし、彼の創る映像は、プロも驚くほどのクオリティーと感性に満ちていて、企業のプロモーション映像などの引き合いが後を絶ちません。
また、彼は単に優れたスキルを持っているだけではありません。絶対に他人の悪口を言わず、相手の弱みや強みを客観的に評価しながらも、弱みを批判したり嫌ったりすることはなく、その人の魅力や強みだけを見て誰とでも楽しく付き合うことができる奇特な性格の持ち主です。そんなところに私は大いに学ばせてもらい、また大いに助けられています。
この人と出会っていなければ今の自分はいない。そのような出会いこそが、「我逢人」なのです。
自分を高めていれば、いつか見合う人が現れる
なぜ私があなたに「我逢人」という言葉を伝えたいのかというと、私のように何の後ろ盾もなく何かを始めようという人にも、必ず、希望に満ちた出会いがあるということを知ってほしいからなのです。出会いを大切に育めば、不可能が可能になっていくのです。
出会いは自分自身が試されるもの。いい出会いがないという人も、自分を高めるために真剣に学び、出会う準備ができていれば、必ず良き出会いに恵まれます。
いい人に出会えないと気落ちするのではなく、自分がいい人になれるよう、努力を重ねていきましょう。必ず、自分に見合う人が現れ、一緒に未来を切り拓いていくことができるはずです。
【前々回を読む】⇒いつも何か満たされない人へ。生きづらい人を救う大愚和尚のことば
【前回を読む】⇒SNSでマウントしあう人へ。妄想と怒りをしずめる方法を、大愚和尚が語る
<文/大愚元勝>
大愚元勝
佛心宗大叢山福厳寺住職。慈光グループ会長。駒澤大学、曹洞宗大本山總持寺を経て、愛知学院大学大学院文学修士号を取得。僧侶、事業家、作家・講演家、セラピスト、空手家と5つの顔を持つ異色の僧侶。愛知県小牧市に540年の歴史を誇る禅寺、福厳寺の弟子として育つも、厳しい師匠や堅苦しいしきたり、「お寺の子」と噂される重圧に反発して寺を飛び出す。32歳で起業。慈悲心を具現化したいと、複数の事業を立ち上げて軌道に乗せる。社員教育は人間教育であることを実感し、40歳を目前に寺に戻ることを決意。平成27年に福厳寺31代住職に就任
(エディタ(Editor):dutyadmin)