こんにちは。yuzukaです。
精神科・美容外科の元看護師。現在はコラムやエッセイを書きながら沖縄で生活する私が、悩める読者さんのお悩み相談にお答えするこの連載。第34回はこんなお悩みです。
Q.30代になるのが怖い。加齢を受け入れるには?
相談者 まこさん(仮名)29歳・未婚
「先日、29歳になりました。20代後半から誕生日がまったく嬉しくなくなり、あと1年で30代に突入してしまうことに漠然とした不安があります。
それなりに恋愛も仕事もしてきましたが、私の20代ってこれでよかったんだろうか? とか、30歳を越えると他人の自分への接し方が変わってしまうんじゃないか? とか、考えだすと、不安でたまらないのです。彼氏もいないので結婚への焦りも大きいです。
できることなら、大人の女性として、どーんと構えて加齢を受け入れたい。でも怖い。どうしたらいいでしょうか?」
“おばさん”という言葉が突然自分ごとのように…
yuzukaさんの回答
恋愛や家族関係に関する質問が多い中この質問を選んだのはこの悩みに、心底共感している自分がいたからである。29歳になった途端に突如としてやってくるこの漠然とした不安の壁は、どうやら同年代の女性皆がぶちあたってきたものらしい。
私自身、この年齢になった途端、今まで他人事だと思っていた「おばさん」という言葉が突然自分ごとになったような気がして、同じように不安に駆られた。先に答えを言ってしまえば、きっとこの悩みへの解決法なんてものはない。
だけど少しだけ、私が感じている気持ちを言葉にしてみたい。
ある夜、宇多田ヒカル「真夏の通り雨」を聞いた
「今日私は一人じゃないし それなりに幸せで これでいいんだと言い聞かせてるけど」
これは、宇多田ヒカルさんが書いた「真夏の通り雨」という曲の一節だ。私は今までに何度もこの曲を聞いてきたし、口ずさんできた。
だけど当時まだ若かった私は、この歌詞の意味を噛み砕けてはいなかった。なんとなく物悲しい曲、失恋の曲、別れの曲。そんな風にとらえていたのだ。
だけど昨日、深夜お酒を飲みながら一人でこの曲のMVを再生したとき、私はまるで、この曲を自分の曲のように感じ、そして今までの解釈とはまったく違う解釈でこの曲を捉えている自分に気が付いた。
過去の記憶がふっと蘇る“あの感覚”

「MTV VMAJ 2016」で、全ノミネート85作品の中から最優秀ビデオ賞をとったこの曲のMVは、柘植泰人監督の作品で、さまざまな映像が断片的に曲に合わせて刹那に移り変わるというものだった。その映像はどれも、おそらく互いに関係のない人や状況のものであり、一見、ただ曲に合わせて美しい情景を切り貼りしただけのようにすら見える。
だけど昨日、私の心を通して見えたそれは、確かに「記憶の走馬灯」だった。知らない誰かの映像なのに、自分の記憶を駆け巡っていくそれを映像として見たように思えたのだ。
誰にだって体験したことがあるのではないかと思う。なんとなく、特別ですらないかもしれない過去の記憶が、突然ばっと押し寄せるあの感覚。
商店街のタイル、知らない誰かの夕飯のにおいの漂う夕方、まぬけな音のチャイム。
誰もいない昼間の電車の窓にうつった自分の顔、知らない植物、小学校から聞こえるトランペットの音。
拓植監督は、この曲を聴いてこのMVを制作した経緯について、こう話す。
「何の前触れもなく過去の記憶がふっと蘇って心を持っていかれるさまをなんて言うんだろう。今回の楽曲を聞いてそんなことを思いました。断片的なイメージの中に、観る人それぞれの記憶が想起されるような映像を目指しました」(リリースより)
29歳。自分も友達も“地に足をつけて”

29歳になった。この年齢になると、周囲の友人はたいてい結婚していて、家事に追われていたり、会社の中でそれなりの立場で、自分の居場所を確立しはじめている人が多い。
髪をしばり、きりっとした彼女たちの姿を見るたびに、当時一緒に大切にしていた何かが彼女たちの中ではすっかりと入れ替わっていることに、いやでも気づかされた。
「地に足をつけて」という言葉がぴったりだと思う。誰もが何かを悟ったように、それぞれの永久の地を見つけようとしているように見えた。家族、何年も苦楽をともにしたパートナーや仕事。
私自身、そうだった。なんとなく落ち着いた日常の中で、ようやく手に入れた幸せと一緒に過ごしている。
毎日が儚い幸せの連続で、その先には想像のできる未来がある。繰り返される毎日を連続再生していけば、そこには平凡な死があって、そしてその死にむかう毎日に、苦しみがあるわけではない。
毎日少しずつ、着実に老いへ向かう身体
29歳。その年齢は確かに、それぞれのライフスタイルが定まり始めるタイミングなのではないかと思う。「29歳なんてまだ若いじゃない」と言われることも多い。だけど、私の体は着実に老いへと向かっている。
ある日は肌の質感が変わったことに気づく。
化粧水が入らなかったり、少し蚊にさされただけで、シミになる。
きめ細く張っていた肌が、少しずつ重力に忠実になっていく。
腰が痛い。徹夜ができない。油っぽいものをたくさん食べられない。
毎日毎日少しずつ着実に老化しているのを感じて、それが恐ろしくてときどきパニックになった。とくに私は長い間女を売ってお金を稼いでいたわけで、
その価値がなくなっていくのを肌で感じることは、末恐ろしいものだった。
私たちは選んだ道の延長線上に生きている
怖い。老いていくのが。そして思う。私はこのまま何もせずに死んでいくのか?だらりと続く連続再生の中に身を置いて、テープがまわらなくなるのを、ただただ、待っているつもりなの?
そんな時に思い出すのは「選ばなかった道」だ。年齢を重ねるごとに自ずと、選ばなかった道が増えてくる。それはときどき、明確に正解だった場合もあるけれど、ほとんどが微妙なラインで、どっちが正解だったのかなんて、はっきりしない。
だけど事実、私たちは自分が選んだ道の延長線上に生きていて、それはもう、変えられることができない。
だけど老いを感じるごとに、自尊心が削がれていく感覚に陥るたびに、選ばなかった道に恋い焦がれてしまう。
私の人生は、こっちで良かったのだろうか? いや、こっちで良いはずだ。だって目の前には大切な日常があって、私自身の選択を後悔してしまったら、目の前の存在まで否定することになってしまう。
焦る必要なんてないのだ。ただのないものねだりだ。だって目の前には幸せがあって、なんの苦労もなく生きていられるのだから。そうやって誰にも言わず、誰にも言えず、そして、考えることを辞めた。だけどいつも、ふとした瞬間に、あの記憶の波がやってくるのだ。
幸せだからこそ「あの日」に心を持っていかれる
そんな時に、「真夏の通り雨」を聴いた。この曲は、まさに私たちの世代へ向けた曲ではないのだろうか。私たちは毎日、平凡で変わらない愛おしい生活を送りながら、だけどどこかで「あの日」への未練を断ち切れずに生きている。
ふとした瞬間、幸せな瞬間にこそ押し寄せる「あの日」の記憶がいつまでも、何年たっても胸を締め付けて、選ばなかった道の向こう側にある自分を思い起こしては、静かに嫉妬する。
確かに幸せで、かけがえのない、今さら捨てられない今がある。だからこそ切なくて、苦しくて、戻りたいわけでもなくて。だけどただ美しくて脆い情熱的なその記憶に、心を持っていかれるのだ。
羨ましい。あのとき情緒に身を任せていたら、私の心はまだ、燃えたぎっていたのだろうか。
未練は、愛して受け止める以外にない
選ばなかった道への未練を断ち切るのは、きっと不可能なのかもしれないと思う。私たちは年老いて、死に向かえばむかうほど、そういう未練を胸のなかに溜め込んで、切なさと戦いながら生きていくのかもしれない。
じゃあ、どうすれば良いのだろうと考える。解決策がない悩みにしては、少し存在感が大きすぎる気がする。だから私は「どうしよう」と考えることを辞めることにした。だって、どうしようもないのだから。
選択は、変えられない。死に向かって老いていくことからは、離脱できない。だから、受け止める。自分の選択、そのどれもが奇跡の産物で、そのどれもが正解で、そしてそのどれもが美しいものだったのだと、改めて自分の中で認めてあげるのだ。
変えられないことは、愛して受け止める以外にない。私たちは蓄積された選択の中で生きていくことを理解して、記憶の一瞬一瞬を、抱きしめることが、この漠然とした不安からの脱出方法なのかもしれない、と思う。
そしてこれから先、少しでも引きずるものを減らすため、ひとつひとつの分かれ道で、もっと情熱に任せて選択することも、大切なのかもしれない、なんて、そんなことも思った。
大丈夫。人生は、まだ続いていく。質問者の方や、私と同じように悩んでいる人がいたら、「真夏の通り雨」素敵なMVだから、ぜひ見てほしい。
<文/yuzuka>
yuzuka
コラムニスト。精神科・美容外科の元看護師でもある。著書に『大丈夫、君は可愛いから。君は絶対、幸せになれるから』(KADOKAWA)など。Twitter:@yuzuka_tecpizza
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