鈴木亮平主演の映画『エゴイスト』が2月10日に公開され話題になっています。
2月13日に発表された10日~12日 の全国動員集計(興行通信社調べ)によると10位にランクイン。ミニシアター系にもかかわらず多くの人が劇場に足を運び、好調なスタートを切りました。
コラムニストの故・高山真さんの自伝的小説を映画化した本作について、ゲイライターのサムソン高橋さんに綴ってもらいました。(以下、サムソン高橋さんの寄稿です。)
普段の自分とはかけ離れた環境で

『エゴイスト』の映画評の話をいただいたが、その時期が公開直前だったため、外国特派員協会という特殊な場所での試写となった。
丸の内ど真ん中の立派な会場、ふかふかの絨毯(じゅうたん)、半数を占める外国人記者と残り半数は文化的偏差値の高そうなマスコミ関係者、という普段の自分(赤羽の肉体労働バイトおじさん)からはかけ離れた環境にとまどいながら、それでもコロナの関係か隣人と微妙な距離の客席と遠くで小さく光るスクリーンに、おそらくこの会場にいる他の誰も思い浮かばない連想を私はひっそり脳内でしていた。
ゲイの世界を生きてきていくつも見てきたあの顔この顔を思い出す
場末のハッテン映画館に雰囲気が似ている。
いちおう、これから始まる映画の内容はある程度把握している。見る限り、ここにいる人間でこの映画に一番近い当事者は私ではないだろうか。始まる前からなんだか面映(おもは)ゆいような気持になっていた。さぞかしご立派なご高説を垂れた映画が始まるのだろう、あるいはきれいなだけの嘘くさい純愛悲恋が紡がれるのだろう。そしてたぶん、お決まりの「同性愛という枠にとどまらない、普遍的な愛のかたち」とかいう売り文句がくるに決まってるのだ。ノンケが多数いる場所で見る同性愛者の映画は苦手だ。
見たくないものを見るように、私は猫背で目を細めてへの字口で鑑賞を始めた。

冒頭。鈴木亮平演じるファッションエディターの浩輔が登場した瞬間に、私の背筋は伸び、目は見開き、口は半開きになった。
その柔らかな物腰、その大仰な手つき、自分を含めた世界を客観的に見る皮肉なまなざし、そしてすべてを煙に巻くような回転の速い毒っ気のある喋り方。
とある知り合いのゲイに、生き写しだったのである。あの鈴木亮平が。今二丁目で最も人気のある有名人のひとりともいわれる彼が、よりによってオネエを煮詰めたようなあのクソババアと。
続く居酒屋でのシーンは、まるで自分も二丁目のあの場所にいるような気持になってくる。「ババアたち、うるさいわよ!」と思わず声をかけてしまいそうだ。彼らはゲイに特異的人気の『Wの悲劇』について語り、二丁目の路上で突然ヴォーギングを踊る。今まで自分がゲイの世界を生きてきていくつも見てきたあの顔この顔を思い出す。そして極めて既視感のある彼らの中にあって、鈴木亮平演じる浩輔は全く不自然さを感じさせない。

極めつけは、愛する龍太と初めて寝た後の浩輔だ。龍太を見送り一人になった彼はBGMにしていた優雅なクラシックを止め、かけ直したのはちあきなおみの『夜へ急ぐ人』。浩輔は派手なグッチのコートに身を包み、溢れ出る激情とともに突然歌い踊るのだ、原曲キーのハイトーンで。
これはちょっと、今まで見たゲイ映画とはちょっとジャンルもレベルも違う。少年の細やかな心情やゲイカップルの普段の日常を描いた同性愛の良作はあれど、ここまでリアルな(手垢がついた言葉だがそれ以外に見つからない)ゲイ映画は初めてだ。鈴木亮平は憑依型の演技に定評があるとは聞いてたが、その憑依が自分のよく知る人物として目の前に現れると、言葉を失ってしまう。
私は伸ばした背筋を前のめりにして画面に没入していった。
朴訥な青年にも魔性の少年にも見える宮沢氷魚にしかできない役柄

「オカマ」といじめられ、中学で母を亡くした浩輔は、その憎むべき地獄のような田舎を捨てて東京でファッションエディターとして華やかに暮らしている。プライドとブランドで自分を強固に護り上げた浩輔は現在ゲイを隠すこともなく友人にも恵まれ、自由を謳歌しているように見える。ただ、自由であるということは、孤独であるということとイコールだ。
そんなある日、彼はゲイの友人つながりでパーソナルトレイナーの龍太に出会い、お互いに心惹かれていく。立場も個性も趣味も真反対に近いほど大きく違う二人だが、たったひとりの肉親である母親を支え続ける龍太に、浩輔は幼いころ母親を失った自分を投影する。亡き母への想いを取り戻すように二人をサポートする浩輔だが、思いがけない運命が待ち構えていた。

本作はほとんど鈴木亮平劇場といっていいほど彼の存在感は大きい。しかし、龍太を演じる宮沢氷魚が負けていない。
完璧に作りこまれた鈴木亮平の浩輔に対して、宮沢氷魚の龍太はあくまで自然で素朴、しかしながら同時に無自覚な妖しさと儚い色気も感じさせる。天使と悪魔が同時に存在していると言っては陳腐だが、これは、撮る角度によって朴訥(ぼくとつ)な青年にも魔性の少年にも見える宮沢氷魚にしかできない役柄かもしれない。
例えば最初に一緒にお茶をしたときに小銭をばらまいて頭をぶつけて結局浩輔に払わせる彼のドジっ子ぶりに、私は思わず
「気を付けて浩輔! きっとこの子、おリツ(お金目的のパパ活ボーイを揶揄する昭和のゲイ用語。誰も知らなくていい)よ!」
と老婆心から叫んでしまったくらいだ(その私の勘は半分当たることになる)。
実際、私は途中まで、本当に浩輔のことが好きなのか? という基本のところで、龍太の気持ちがわからなかった。彼の一見ピュアな微笑は、本当なのだろうか、打算的なものなのだろうか。つい自分の過去の恋愛を思い出しながら探ってしまう。
そうだ、100%のピュアも、100%の打算も無かった。いつもその間で揺れ動いていた。誰も必要としない情報で申し訳ないが。
ドキュメンタリー手法で、本来なら完璧な見た目のふたりが近い存在の息吹として
なぜこれほどまでに身につまされるのか。この作品はドキュメンタリーの手法を採られているからだ。
この作品にナレーションは無い。登場人物の心の声が聞こえることもない。モノローグは唯一冒頭に浩輔が語る「ブランドの服は鎧(よろい)」という宣言と、地元を呪う言葉だけだ。だから観客は登場人物の心の中を彼らが直接発する言葉とその表情から読み解くしかない。

カメラはワンシーンワンカットの手持ちで、執拗に登場人物の顔のアップ、あるいは身体の一部だけを映し続ける。三半規管の弱い人は酔う可能性があるので後ろの席で観劇することを公式が勧めているくらいだ。
そのドキュメンタリー手法は稀に見る自然さとリアルさという結果で成功している。また、引きのほとんどない構図は、潤沢ではないだろう予算(ロケ地は極めて少ない)をカバーする目的もあったかもしれない。しかし一番効果的だったのは主演ふたりの見た目に及ばす効果だ。
身長180cmを大きく超えるモデル出身の、本来ならば遥か手の届かないルックスの主役ふたりが、執拗に顔のアップだけを追い続けられるために、表情のほころびと歪みが逐一伝わってくる。端的に言って、ちょっと不細工に撮られてるのだ。普通に撮っていたらただのBL夢物語になりかねない、本来なら完璧な見た目のふたりが、まるでそこらにいるありふれた人間のように近い存在の息吹として感じられるのだ。

日本のゲイ映画としてひとつの到達点、あるいはスタート地点
そしてこの作品のひとつの肝だが、セックスシーンがこれまたリアルだ。
聞けばこの作品は、インティマシー・コレオグラファーが採用されているという。濡れ場を演じる際に俳優を尊重する立場から撮影陣と橋渡し役をするインティマシー・コーディネイターは聞いたことがあるが、コレオグラファー(編集部注:振付家)というからにはゲイセックスをリアルに再現するアドバイスをする役割なのだろう。
お互いの確認が取れたらすぐ、性行為へとなだれ込む性急さ。「タチ」「ウケ」をちゃんと表現した動き。龍太の妙に手練れた細やかな動き。
果たして、ちょっと忠実すぎるくらいの再現度に自分のように居心地悪く思ってしまったのは、先ほどの恋愛と同じくこれまでの自分の様々なセックスを思わず振り返ってしまったからだ。これも誰も必要としない情報で本当に申し訳ない。

見ているうちに、ポルノグラフィでもないのに、ゲイセックスをこんなにちゃんと世の中に提示しても大丈夫なのか? とゲイとして不安に思うくらいである。元秘書官の荒井ちゃんにはちょっと見せられないな、もっと嫌がられちゃうな、なんて。
しかしすぐに、これはおかしな話だと気付いた。ゲイの自分が、他の映画やドラマで男女が普通にベッドシーンを演じているのは、いつも当たり前のものとして何の疑問もなく受け入れているではないか。ゲイ歴55年のクソベテランの私ですらゲイという事実に後ろめたさと恥ずかしさを刷り込まれていることに改めて戦慄するのであった。
今作は、日本のゲイ映画としてはひとつの到達点、あるいはスタート地点になるのは間違いないだろう。
お決まりの『普遍的な愛』に落とし込まずに踏み出す、愛のかたち

しかしながらこの映画の本当にすごいところは、それだけでは終わらないことだった。
話の展開に、原作を知らない多くの人は驚くのではないだろうか。あまりにも過酷すぎる、ドラマすぎる、と。しかしながらこればかりは仕方ない。私も本人から直接うかがったが、事実なのだから。
私は最初に、『同性愛という枠にとどまらない、普遍的な愛のかたち』みたいに落とし込まれたら嫌だ、というようなことを書いた。しかしこの映画は、最終的にゲイ映画から大きくはみ出してすべてを包み込むような、ささやかだが普遍的な愛のかたちへと踏み出していく。

ネタバレになるのでここから先の展開や感想は控えておくが、演技経験がほとんど無い阿川佐和子と逆に大ベテランの名優・柄本明が二人とも素晴らしく(この映画、素晴らしい演者しか出てないな)、そして二人がいうセリフ、特に最初はそんなに重要な役柄とは思えなかった、理解のないノンケでもある父親役の柄本明がつぶやく台詞にこの映画の重要なポイントが隠されていることだけを述べておこう。
最後に…
最後に、この拙稿を天国なんて信じていなかったかつての友人である高山真に捧げたい。
彼はプライドと毒気のかたまりで、オネエを煮詰めたようなクソババアで、美しいものと上等なスイーツとブランド物の洋服とカラオケとフィギュアスケートと松任谷由実と松田聖子と三島由紀夫と才能のある人が大好きで、失礼な人と頭の悪い人が大嫌いで、とびきりイケズでとびきり優しくて、とびきり愛にあふれた人だった。
「愛? 違います、ただのエゴです」
と本人は天国(地獄の可能性もある)でうそぶいてるだろうが。
<文/サムソン高橋>
(エディタ(Editor):dutyadmin)

