「よみタイ」で連載され、反響を呼んだコミックエッセイ『妻が口をきいてくれません』(野原広子著)が、衝撃的な描き下ろしを加えて単行本として発売された(2020年11月)。
「妻が、もう3日も口をきいてくれない」という夫の告白で始まる物語は、その後、5年間の妻の沈黙を経て、大展開を迎える。
【前回の記事】⇒大反響コミック『妻が口をきいてくれません』作者に聞く。妻が夫を“あきらめていく”理由
夫と妻とでは抱く不満の質も違う
会社員の夫・誠の目線で描かれた第1章、妻・美咲の目線の第2章、そして最後は夫婦の章。夫と妻とでは、同じ日常を過ごしていてもまったく感覚や感情が違うこと、抱く不満の質も違うことなどがつぶさに描かれていく。
なぜ妻が口をきいてくれなくなったのかわからない夫・誠は、最初のうちは「それでも弁当は作ってくれるんだし、そのうちしゃべってくれるだろう」と甘く考えている。幼い子どもたちのめんどうもみるし家事もやっているのだから、と。
だが、1ヶ月もたつと焦りが生じ、今までやらなかった家事を率先してやったり、会社の女性の先輩に相談して、花やケーキを買って帰ったりと妻の機嫌をとるような行動に出る。それでもダメだとわかると焦りは怒りに変わる。それでも妻は口をきかない。3ヶ月たつと、怒りは恐怖とあきらめへと変化していく。このあたりの夫の心情がなんともせつない。
5年たち夫が気づいた生き地獄
それでも日常生活は続くのが、“家庭”というもののすごさだろう。特に子どもが幼いうちはルーティンですべてが回っていく。妻とは会話がなくても生活していける、と誠は妻の作った弁当を食べている。重要なことはスマホのメッセージ機能で伝えられるが、実際の会話はまったくない。子どもが話せば食卓は一見、にぎやかなのだ。
それでも夫の心にはぽっかりと穴があいている。それを彼はローカル地下アイドルで満たす。誰かの笑顔が自分に向けられていると思えるだけで少し癒やされる男心は、女性にはわかりづらいものかもしれない。その場しのぎの癒やしを繰り返すしかない男と、関係性の本質を見極めようとしている女の間には、わかりあえない溝がある。
だが、5年たったある日、彼は気づく。自分はずっと怯えていた。「自分は今、地獄にいる」のだ。妻からの無視は続き、大人びてきた長女には邪魔にされる。生き地獄だったのだ、と。
妻は決めた。夫をあきらめよう、と
一方、妻・美咲は幼子をふたり抱えて、24時間365日気の抜けない日々を送っているときの夫の態度に業を煮やしていた。些細(ささい)なことで夫は文句を言う。1日家にいる妻が「暇」なのだと思っている。何か言えば、「ママはすぐ言い訳するよね」と圧をかけてくる。
子どもに振り回されて息抜きさえできない日常を、夫が慮(おもんばか)ることはない。このあたりの小さな不満、ストレスの積み重ねの描き方は非常にリアルで、読んでいて胸が詰まるほどだ。
それで美咲は決めたのだ。夫をあきらめよう、夫と話すのをやめよう、と。知らないうちに心は遠く離れてしまったから。
美咲は役割だけを静かにこなしていくことにした。だから夫の弁当を作り、子どもたちの世話をし、食事の支度をする。そしてパートに出るようになった。「その日」に備えて。
「遅いよ」妻が臨界点を越えた後に優しくされても…
それでも夫の変化は美咲の心をときおり揺るがせた。せっせと妻の機嫌をとる夫をかわいそうだと思うこともあった。それでも思うのだ、「遅いよ」と。
この気持ち、本当によくわかる。私自身も離婚経験者だが、心が離れて離婚を決めたとき、夫から恋愛時代のようなやさしい言葉や態度を突きつけられたことがある。もう少し前にそういう変化を見せてくれたら、強引にでも気持ちを引き戻してくれたら、私は離婚を決めなかった。「遅いよ」と思った。一度、臨界点を超えてしまったら戻れないのだ。どんなに強い意志でやり直そうとしても。
ただ、幼い子どもたちがいる美咲は、簡単に離婚することはできない。だから夫と口をきくのをやめて生活だけを重視した。会話がなければ文句も言われない、イライラすることもない。美咲は少しだけ気が楽になる。だが5年たつうちに、思うのだ。「たわいもない会話がしたい」と。
最終章では、夫が離婚を口にする。それを聞いた妻は怒りを隠せない。自分から言うはずだったのに。そして妻は「私は、まだ好きなのに?」ととっさに口走ってしまうのだ。
その後、夫は娘から、5年前の「真実」を聞かされる。そしてさらに衝撃の展開が待っている。
「いちばん身近な他人」として、夫婦がどう向き合うか
会話のないまま暮らしている夫婦は少なくないだろう。仮面夫婦としてでも家庭を壊したくはない。子どもの学費などを考えたら、離婚すると損だと考える妻も多い。働き方が変わり、男女の賃金格差がなくなれば離婚はもっと増えるのかもしれないが。経済格差がある限り、夫は家庭でもどこか優位な立場でいられるため、妻の我慢が大きくなっていく。そういった問題が解消されたとき、初めて夫婦は愛情だけで結びつくことができるのかもしれない。
経済的な力の差があっても、人間としては対等なはず。社会が変わらないなら個人的関係から変えていくしかないのもまた事実だ。これからの世代の夫婦感覚は、今までの世代とは大きく変わっていく可能性がある。
この物語は、現代を生きるどの夫婦にも起こり得ることだ。そして「いちばん身近な他人」として、夫婦がどう向き合うかを考えるヒントになるに違いない。
<文/亀山早苗>
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フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数
(エディタ(Editor):dutyadmin)





